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長崎高資とは何者か?父・長崎高綱(円喜)との関係と鎌倉幕府滅亡まで徹底解説

東條 七海 東條 七海 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
目次

長崎高資(ながさきたかすけ)は、鎌倉時代末期に北条高時政権の内管領として幕府の実権を握った武士です。父は長崎高綱(法名・円喜)で、長崎氏は父子二代にわたって北条得宗家を支えながら、幕府政治の中枢に大きな影響力を持ちました。

高資の名前が歴史に残る理由は、単に権力を握ったからではありません。1322年に始まった安藤氏の乱への対応、1326年の嘉暦の騒動、金沢貞顕や赤橋守時の執権就任、さらには1331年の暗殺計画など、鎌倉幕府末期の政治的混乱に深く関わった人物だからです。2026年現在も、鎌倉幕府滅亡を理解するうえで欠かせない存在です。

この記事では、山川出版社の『日本史小辞典』、平凡社『世界大百科事典』、鎌倉市中央図書館などの歴史資料をもとに、長崎高資の読み方、生涯、父・長崎円喜との親子関係、北条高時との関係、専横政治の実態、新田義貞による鎌倉攻め、そして最期までを整理します。

【長崎高資とは?】読み方・生涯と北条高時との関係

長崎高資

人物の基本情報と歴史的位置づけ

長崎高資の読み方と基本プロフィール

長崎高資は「ながさき・たかすけ」と読みます。

鎌倉幕府の執権・北条高時に仕えた得宗被官であり、父の長崎高綱から内管領の地位を引き継いだ人物です。

生年は明らかになっていませんが、没年は1333年5月22日とされています。

項目 内容
名前 長崎高資
読み方 ながさきたかすけ
生年 不詳
没年 1333年5月22日
時代 鎌倉時代後期
父 長崎高綱(円喜)
主君 北条高時
身分 得宗被官・御内人
役職 内管領
最期 東勝寺で自害

山川出版社の『日本史小辞典』では、1317年(文保元年)頃に父から内管領の地位を継承し、幕政の実権を握ったと説明されています。

また、長崎高資は内管領にとどまらず、評定衆の一員にもなっていました。北条氏一門ではない御内人が、幕府の重要人事や政策決定に強い影響力を持った点に、この人物の特異性があります。

父・長崎高綱と長崎円喜は同一人物

長崎高資の父について調べると、「長崎高綱」と「長崎円喜」という二つの名前が登場します。

この二人は別人ではありません。

長崎高綱が俗名、円喜が出家後の法名です。したがって、長崎円喜は長崎高資の父親に当たります。

親子関係を整理すると、次のようになります。



長崎高綱(円喜)
父・内管領。長崎氏の有力者



親子関係・内管領の継承


長崎高資
子・父の後を継いで幕政の実権を掌握

父の高綱も、鎌倉幕府末期の重要人物でした。

山川出版社の『日本史小辞典』によれば、高綱は1305年以降に内管領の地位に就き、北条高時の父・北条貞時から後事を託された人物です。

1316年頃には高資へ内管領の地位を譲ったと推定されています。ただし、父はその後も政治に大きな影響を与え続け、1333年に東勝寺で自害するまで幕府中枢に関わりました。

北条高時との関係は主従関係

長崎高資と北条高時は血縁関係ではありません。

高資は北条得宗家に仕える家臣であり、高時は北条氏の嫡流を継いだ得宗で、鎌倉幕府第14代執権です。

本来、高資は高時を支える立場でした。しかし、得宗家の家政機関を取り仕切る内管領という立場から、次第に政治的な影響力を拡大します。

やがて高時の意思だけでは高資を排除できないほどの権力関係が生まれました。

この主従関係の逆転こそ、長崎高資という人物を理解する要点です。

【内管領とは何か?】御内人と得宗専制の仕組み

長崎高資の権力を理解するには、「内管領」と「御内人」、そして「得宗専制」という三つの言葉を押さえる必要があります。

内管領とは得宗家の家政を取り仕切る筆頭家臣

内管領(うちかんれい、ないかんれい)とは、鎌倉幕府の北条得宗家に仕える御内人の筆頭に位置する家臣です。

もともとは北条氏の家政を担当する私的な役職でした。

しかし、北条氏が幕府の政治権力を独占するようになると、得宗家の家臣が幕府の政務にも関与するようになります。

その結果、内管領は単なる家政担当者ではなく、幕府の人事や政策にも影響を及ぼす政治的な実力者へと変化しました。

御内人と御家人の違い

御内人(みうちびと)は、北条氏の家督である得宗に直接仕える家臣を指します。

一方、御家人は将軍に直接仕える武士です。

両者は鎌倉幕府の支配体制の中で異なる立場にありました。

比較項目 御内人 御家人
主従関係 北条得宗家に仕える 将軍に仕える
立場 得宗家の直属家臣 将軍の直属家臣
主な役割 得宗領の管理、使者、代官など 軍役、所領管理、幕府への奉仕
政治的影響 得宗専制の強化で拡大 幕府の伝統的な支配層
代表的人物 長崎高綱・長崎高資 安達氏など

御内人は将軍から見れば陪臣、つまり家臣の家臣に当たります。

ところが、得宗家の所領が拡大すると、御内人も経済力と政治力を蓄積しました。

加えて、得宗家の私的な会合である寄合で幕府の重要事項が決められるようになり、御内人の発言力は一段と強まります。

得宗専制が長崎氏の権力を生み出した

得宗専制とは、北条氏の嫡流である得宗と、その直属家臣によって幕府政治が主導される体制です。

この体制が強化されると、幕府の正式な役職や会議だけでなく、得宗家内部の人間関係や意思決定が政治を左右するようになりました。

その象徴的な存在が、内管領の長崎氏です。

高資の権力は、個人の能力や性格だけで生まれたものではありません。得宗家の家臣が幕府の意思決定に介入できる政治構造が、その背景にありました。

つまり、長崎高資の専横は、鎌倉幕府の統治システムそのものが抱えていた問題を映し出しています。

【長崎高資の専横政治】安藤氏の乱から嘉暦の騒動まで

長崎高資の政治姿勢を考えるうえで、特に重要なのが安藤氏の乱と嘉暦の騒動です。

この二つの出来事は、幕府の地方統治と中央の人事支配が同時に揺らいでいたことを示しています。

1322年に始まった安藤氏の乱と賄賂問題

安藤氏の乱は、津軽地方を中心に起こった安藤氏一族の内紛です。

発端となったのは、安藤又太郎季長と、その従兄弟である五郎三郎季久の対立でした。

元亨2年(1322年)春、両者は鎌倉に上り、安藤氏の所領や一族内の支配権をめぐって争いました。

このとき幕府の実権を握っていた長崎高資は、対立する双方から賄賂を受け取ったと伝えられています。

弘前市立弘前図書館の郷土史資料「安藤の乱の展開」でも、高資が双方から賄賂を受け取ったため、簡単に裁決できなかった経緯が紹介されています。

問題は、単に金銭を受け取ったことだけではありません。

幕府には本来、地方の武士の争いを裁定し、秩序を維持する役割がありました。

ところが、裁定を担う側が双方から利益を得ていたため、争いは長期化します。

1325年(正中2年)6月には、幕府が蝦夷管領職を安藤又太郎から五郎三郎へ変更しました。これも一族間の対立を深める要因になりました。

幕府は1326年に工藤祐貞、翌1327年には宇都宮高貞や小田高知らを派遣し、最終的に1328年の和議によって収拾しました。

なお、安藤氏の乱の開始年には資料による表現の違いがあります。

1322年は一族の対立と鎌倉での相論が始まった時期、1325年は幕府による職の変更などで争いが拡大した時期と整理すると理解しやすくなります。

1326年の嘉暦の騒動と金沢貞顕の執権就任

嘉暦の騒動は、1326年(嘉暦元年)に起きた鎌倉幕府内部の政治的混乱です。

当時、執権の北条高時は病気を理由に出家し、執権職を退きました。

その後任をめぐって、幕府内部では激しい対立が起こります。

長崎高資が推したのは、北条一門の金沢貞顕でした。

ところが、高時の弟である北条泰家らが貞顕の就任に反対します。

貞顕は執権に就任したものの、反対派の動きなどを受け、わずか10余日で出家して辞職しました。

この一連の騒動は、長崎高資が幕府の執権人事にまで介入していたことを示す出来事です。

長崎高資の生涯を時系列で整理

ここまでの出来事を年代順に並べると、高資の権力拡大と幕府の弱体化が見えてきます。

年代 出来事 長崎高資との関係
1305年 父・高綱が内管領に就任 父が長崎氏の権力基盤を形成
1316~1317年頃 内管領を継承 高資が幕政の実権を掌握
1322年 安藤氏の乱が始まる 双方から賄賂を受けたとされる
1325年 安藤氏の支配権をめぐる対立が拡大 幕府の裁定への不信が深まる
1326年 嘉暦の騒動 金沢貞顕を執権に推挙
1326年 赤橋守時が執権に就任 高資の意向が反映されたとされる
1331年 高資の暗殺計画が発覚 北条高時も排除を試みる
1333年5月22日 鎌倉幕府滅亡 東勝寺で自害

この年表は、山川出版社の『日本史小辞典』、平凡社『世界大百科事典』、鎌倉市中央図書館の資料などをもとに整理したものです。

【金沢貞顕・赤橋守時との関係】長崎高資は執権人事を左右したのか

嘉暦の騒動で重要なのは、長崎高資が単に執権の補佐をしていたのではなく、後任の選定に強い影響を与えていたことです。

金沢貞顕を執権に推した理由

金沢貞顕は、北条氏一門の出身で、評定衆や連署など幕府の要職を歴任した武将です。

1315年には連署に就任しており、幕府の政治運営に関する経験も豊富でした。

高時が出家すると、高資は貞顕を後任として推挙します。

しかし、高時の弟である北条泰家らが反発しました。

貞顕は結局、短期間で執権を辞任しています。

この騒動は、幕府の人事が本来の政治的な手続きや北条一門の合意だけでは決まらず、内管領の意向によって左右されていたことを示しています。

赤橋守時は高資が推した次の執権

金沢貞顕の辞職後、執権に就任したのが赤橋守時です。

守時は北条氏の一族であり、鎌倉幕府第16代、そして最後の執権となった人物です。

高資は貞顕に続いて守時を推したとされます。

平凡社『世界大百科事典』は、赤橋守時の執権就任についても高資の人事だったと説明し、『保暦間記』に基づく高資への批判を紹介しています。

ただし、守時と高資の関係は、血縁関係ではなく政治上の関係です。

守時は北条一門の人物として執権に就任し、高資はその人事に影響を与えた立場でした。

1331年には北条高時自身が高資の排除を計画

高資の権力がどれほど強かったかを示すのが、1331年(元弘元年)の出来事です。

山川出版社の『日本史小辞典』によると、長崎高資の専横を憎んだ北条高時は、高資の殺害を計画しました。

しかし、その計画は発覚します。

高時は自らの関与を否定し、計画に関わった側が処分されました。

この一件は非常に重要です。

通常であれば、幕府の最高権力者である得宗が命じれば、その家臣を排除できるはずです。

ところが高時は、高資を処分することができませんでした。

得宗家の主君である北条高時さえ、内管領の長崎高資を自由に排除できなかった。

この状況は、鎌倉幕府の権力構造が深刻な機能不全に陥っていたことを物語っています。

【元弘の乱と新田義貞の鎌倉攻め】長崎高資の最期・自害

長崎高資の最期は、鎌倉幕府そのものの滅亡と重なります。

元弘の乱で幕府の支配体制が崩れる

元弘の乱は、後醍醐天皇を中心とする倒幕運動と、鎌倉幕府との間で起こった一連の戦いです。

1331年、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、幕府は天皇を隠岐へ配流しました。

しかし、倒幕運動は収束しませんでした。

各地で反幕府勢力が拡大し、足利尊氏や新田義貞ら、かつて幕府に仕えていた有力武士も幕府に反旗を翻します。

1333年には京都の六波羅探題が陥落し、東国でも新田義貞が鎌倉へ進軍しました。

1333年5月、新田義貞が鎌倉へ攻め込む

新田義貞は1333年5月8日、上野国の生品明神で挙兵しました。

その後、小手指原、久米川、分倍河原などで幕府軍と戦い、鎌倉へ進軍します。

鎌倉市中央図書館のレファレンス資料によれば、5月18日から新田軍は次の三方面で鎌倉を攻撃しました。

- 巨福呂坂方面
- 化粧坂方面
- 極楽寺切通方面

幕府軍も各方面で迎撃し、数日間にわたって激戦が続きました。

5月21日から22日にかけて、新田軍は極楽寺方面で突破口を開き、鎌倉市中へ進入します。

東勝寺で北条高時らとともに自害

鎌倉市・東勝寺跡の歴史的景観

鎌倉へ新田軍が侵入すると、幕府の中枢にいた人々は東勝寺へ集まりました。

東勝寺は、北条得宗家の氏寺として知られる寺院です。

元弘3年(1333年)5月22日、北条高時は一族や家臣らとともに東勝寺で自害しました。

長崎高資もこのとき、北条氏一門や一族とともに自害したとされています。

山川出版社の『日本史小辞典』と講談社の『日本人名大辞典』も、高資の没日を1333年5月22日とし、東勝寺での自害を記しています。

鎌倉市の公式文化財案内によると、このとき北条高時は一族郎党など870余人とともに自害し、東勝寺は焼失しました。

現在の東勝寺跡は国指定史跡です。発掘調査後、遺構は保護のため埋め戻され、現地ではフェンスの外から当時の地形を確認できます。

「腹切りやぐら」と長崎高資の最期は同じなのか

ここで注意したいのが、東勝寺跡の近くにある「腹切りやぐら」です。

この場所は、北条高時らが自害したという伝承から、その名前で呼ばれるようになったとされています。

ただし、東勝寺での自害と、腹切りやぐらという特定の場所での自害を同一視するのは正確ではありません。

鎌倉市の公式案内でも、東勝寺跡での自害と、腹切りやぐらに伝わる由来は区別して説明されています。

また、『太平記』に登場する長崎高重という武士も、高資と混同されやすい人物です。高重は鎌倉攻防戦で奮戦した人物として描かれていますが、高資とは別人です。高重の系譜については研究上の検討もあります。

【プロの結論】長崎高資は鎌倉幕府滅亡の原因だったのか?

長崎高資を単なる悪徳政治家として理解すると、鎌倉幕府がなぜ滅亡したのかという本質を見失います。

確かに、高資の政治には批判されるべき点がありました。

安藤氏の乱では裁定をめぐって不信を招き、嘉暦の騒動では執権人事に介入し、北条高時との関係も悪化しました。

しかし、幕府滅亡を高資一人の責任に帰すことはできません。

長崎高資の専横が幕府に与えた三つの影響

1.幕府の裁判・統治への信頼を低下させた

安藤氏の乱で双方から賄賂を受け取ったとされる問題は、幕府の裁定能力への不信を強めました。

地方の争いを解決するはずの幕府が、むしろ争いを長引かせる側に回ったことは、政治的な権威を傷つける結果となりました。

2.北条一門と御内人の対立を深めた

内管領が執権人事まで左右する状況は、北条一門にとっても不安定なものでした。

嘉暦の騒動や1331年の暗殺計画は、幕府内部の権力争いが深刻化していたことを示しています。

3.幕府の危機対応能力を弱めた

後醍醐天皇の倒幕運動、地方の反乱、御家人の不満など、幕府は複数の問題を抱えていました。

そのような状況で内部の権力争いが続けば、外部の反幕府勢力に対抗するための結束力も弱まります。

平凡社『世界大百科事典』も、御内人と御家人の対立が鎌倉幕府滅亡に大きく関係したことを指摘しています。

長崎高資について知るときの三つの判断基準

歴史資料や解説記事を読む際には、次の三点を押さえておくと、人物像をより正確に理解できます。

- 名前の区別: 長崎高綱と長崎円喜は同一人物。長崎高資の父である。
- 年代の区別: 安藤氏の乱は1322年に始まり、1325年の幕府による職の変更などを経て拡大した。
- 人物の区別: 長崎高資と、鎌倉攻防戦で活躍した長崎高重は別人である。

長崎高資は、鎌倉幕府の政治構造が抱えた矛盾を体現する人物でした。

得宗家を支えるために生まれた内管領という立場が、いつしか得宗自身をも左右するほどの権力を持つようになったのです。

高資の生涯は、鎌倉幕府の権力が外部から崩されたばかりではなく、内部の統治構造からも弱体化していたことを教えてくれます。

【長崎高資の生涯】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:長崎高資の読み方は何ですか?

A1:長崎高資は「ながさきたかすけ」と読みます。鎌倉時代後期の武士で、北条高時に仕えた内管領です。

Q2:長崎高資の父・長崎高綱と長崎円喜は別人ですか?

A2:別人ではありません。長崎高綱は俗名で、円喜は出家後の法名です。長崎円喜は長崎高資の父親に当たります。

Q3:長崎高資は北条高時とどのような関係でしたか?

A3:血縁関係ではなく主従関係です。高資は北条得宗家に仕える御内人で、北条高時の時代に内管領として幕政の実権を握りました。

Q4:長崎高資はいつ、どこで亡くなりましたか?

A4:1333年(元弘3年)5月22日です。新田義貞による鎌倉攻めの際、東勝寺で北条高時や北条一門らとともに自害しました。

Q5:安藤氏の乱は1322年と1325年のどちらに始まったのですか?

A5:一族の対立が始まったのは1322年です。1325年には幕府による蝦夷管領職の変更などがあり、争いがさらに拡大しました。資料によって乱の開始と拡大のどちらを基準にするかが異なります。

長崎高資は、父・長崎高綱(円喜)から内管領の地位を引き継ぎ、北条高時政権で絶大な権力を持った鎌倉時代末期の武士です。

1322年に始まった安藤氏の乱では、双方から賄賂を受け取ったとされ、幕府の裁定への信頼を損ないました。1326年の嘉暦の騒動では金沢貞顕を執権に推し、続いて赤橋守時の就任にも影響を及ぼしました。

加えて、1331年には北条高時自身が高資の排除を試みるほど、幕府内部の対立は深刻化していました。

そして1333年5月22日、新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府は滅亡します。高資も東勝寺で自害し、父子二代にわたって築いた長崎氏の権力も終わりを迎えました。

長崎高資の歴史的な意味は、鎌倉幕府を一人で滅ぼした人物ということではありません。得宗専制という政治体制が生み出した権力の集中と、それによって生じた統治の混乱を象徴する人物だったことにあります。

長崎高資、長崎円喜、北条高時、金沢貞顕、新田義貞という人物の関係をたどると、鎌倉幕府滅亡は単なる戦争の敗北ではなく、長年にわたる政治構造の変化と内部対立の帰結だったことが見えてきます。

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東條 七海

化粧品の全成分表示と製造販売元の公式資料、公的機関の効能評価を確認して記事化。体験談は取材了承を得た範囲でのみ引用します。

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