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織田信長の身長は何cm?170cm説と166〜169cm説の根拠を2026年最新検証

東條 七海 東條 七海 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
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織田信長の身長は何cmだったのか。歴史上の人物として圧倒的な存在感を放つ信長には、170cm説や166〜169cm説など、複数の推定値が存在する。戦国時代の男性の平均身長が現在より低かったことを考えると、170cmという数字はかなりの長身に感じられる。

しかし、信長本人の身長をセンチメートル単位で記録した確実な実測資料は確認されていない。手掛かりになるのは、実際に信長と面会した宣教師ルイス・フロイスの人物評、大徳寺総見院に伝わる木造坐像、愛知県豊田市の長興寺に残る肖像画、そして歴史上の人物の身体測定を試みた研究者の推定である。

2026年11月時点で確認できる資料を整理すると、170cmは有力な現代の推定値の一つであり、166〜169cmという別の推定も存在する。ただし、どちらも確定した実測身長ではない。数字の出典と、それぞれの根拠を分けて見ることが、信長の実際の体格に近づくための鍵となる。

【結論】織田信長の身長は何cm?170cm説と166〜169cm説を比較

織田信長身長

最初に答えを示すと、織田信長の身長は170cm前後と推定する説があるものの、確定値は不明である。

現在知られている主な数字は170cmと166〜169cmの2種類だ。

170cm説は、医師で作家の篠田達明が2016年に刊行した『日本史有名人の身体測定』で紹介された推定値である。一方、166〜169cm説は、大徳寺に残された信長の等身大木像などを根拠に、歴史研究家の小和田泰経氏が紹介した推定である。

この2つは必ずしも矛盾する数字ではない。どちらも後世の研究・推定に基づくものであり、測定方法や根拠とする資料が異なる。

重要なのは、170cmという数字が歴史資料に直接記された確定身長ではないという点だ。

織田信長の身長に関する主な推定値
項目 数値・記述 根拠・位置づけ
篠田達明の推定 170cm 『日本史有名人の身体測定』
小和田泰経氏の紹介 166〜169cm 大徳寺の等身大木像などを手掛かりにした推定
フロイス『日本史』 中くらいの背丈 同時代の人物評。数値ではない
フロイスの書簡に関する紹介 背が高く痩せている 別の記述として伝わる人物評
室町時代男性の平均 約156.8cm 関東地方の出土人骨による推定研究
信長本人の確定身長 不明 センチメートル単位の確実な実測記録なし

したがって、一般向けに信長の身長を紹介するなら「約170cmとする推定がある」「166〜169cmとする説もある」という表現が適切だ。

【170cm説の出典】篠田達明『日本史有名人の身体測定』に記された数字

織田信長の身長を調べると、最もよく目にするのが170cmという数字である。

この数字の出典として押さえておきたいのが、篠田達明著『日本史有名人の身体測定』だ。

同書はKADOKAWAから2016年2月26日に発売された192ページの書籍で、日本史上の著名人約130人について、身長や体重、病歴、死因などを取り上げている。

著者の篠田達明は1937年生まれの医師兼作家。医学的な視点を歴史人物の身体的特徴に応用した内容が特徴となっている。

大阪府立図書館も紹介した信長170cm説

この170cm説を確認できる具体的な資料が、大阪府立図書館の2016年10月20日付の書籍紹介記事「本蔵 -知る司書ぞ知る(24号)」である。

同記事は、篠田達明の著書を取り上げ、次の3人の推定身長を紹介している。

- 織田信長:170cm
- 豊臣秀吉:140cm
- 徳川家康:159cm

加えて、当時の男性の平均身長を157cmとして紹介している。

この数字を比較すると、信長は平均より13cm高い計算になる。仮に170cmだったとすれば、当時の男性の中では目立つ長身だった可能性がある。

ただし、大阪府立図書館の記事は書籍の内容を紹介したものであり、信長の身長を実測した一次史料ではない。

また、KADOKAWAの刊行情報や国立国会図書館の書誌情報からは、著書の存在と内容の概要は確認できるものの、170cmという数字を導いた具体的な計算過程までは読み取れない。

つまり、170cm説の出典は追えるが、その数字を確定させる直接的な測定記録があるわけではない。

なぜ170cm説が広く知られるようになったのか

理由の一つは、信長・秀吉・家康という戦国三英傑を同じ基準で比較できる点にある。

信長170cm、秀吉140cm、家康159cmという数字は、3人の人物像を視覚的に理解しやすい。

特に秀吉の140cmという数字との対比は印象が強い。

しかし、3人とも現代の身体測定のような確実な記録が残っているわけではない。比較表に数字が並んでいても、すべてが同じ精度の実測値という意味にはならない。

170cm説は、歴史人物の身体的特徴を考えるうえで参考になる推定値だが、史実として固定してしまうのは適切ではない。

【フロイスの証言】信長は「中くらいの背丈」で「華奢」だった?

信長の体格を考えるうえで、特に重要なのがポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録である。

フロイスは1563年に来日し、信長と実際に面会した人物だ。戦国時代の日本について記した『日本史』は、当時の政治や文化、人物像を知るための重要な史料として知られている。

文部科学省の歴史資料に関する教材でも、フロイスが信長に18回面会したことや、信長の身体的特徴について記した内容が紹介されている。

『フロイス日本史』にある身長の表現

フロイスの『日本史』における信長の人物評では、身長について次のような表現が伝えられている。

彼は中くらいの背丈で華奢な体つきであり、髭は少なく、はなはだ声は快調で……

出典:ルイス・フロイス『日本史』松田毅一・川崎桃太訳。

ここで注目したいのは「中くらいの背丈」と「華奢な体つき」という2つの表現だ。

170cmという具体的な数字は出てこない。

フロイスが信長の体格について残したのは、あくまでも人物を観察した印象である。

「中くらい」という表現についても、何を比較対象としているのかが明確ではない。日本人の中で平均的だったのか、フロイス自身が知っていた人物の中で平均的だったのかによって、解釈は変わる。

そのため、この一文だけから170cmや166cmといった数値を直接導くことはできない。

フロイスの書簡には「背が高く痩せている」という記述もある

さらに興味深いのが、フロイスの別の書簡に関する記述である。

1569年6月1日付の書簡の訳文として紹介される人物評には、信長を「背は高く痩せており、髭は少ない」とする表現がある。

一方、『日本史』の人物描写では「中くらいの背丈」とされている。

この違いは、信長の身長を考える際に見逃せない。

同じフロイスに由来する記述でも、書簡と後年の歴史叙述では表現が異なる。記録された時期や文章の目的、比較の基準などが異なっていた可能性がある。

いずれにしても、フロイスの記述から読み取れる共通点は、信長が細身の人物として描かれていることだ。

「華奢」は体力がなかったという意味ではない

華奢という言葉から、信長を弱々しい人物と想像する人もいるかもしれない。

しかし、体格の細さと身体能力は別の問題だ。

フロイスの人物評には、信長が戦を好み、軍事的な修練に励み、戦術に長けていたという内容も含まれている。

また、家臣の太田牛一が記した『信長公記』には、若い頃の信長が馬の稽古や水練、鷹狩りなどに取り組んでいたことが記されている。

つまり、細身だったという人物評から、運動能力や身体的な強さまで低く評価することはできない。

信長の体格を考える際には、身長だけでなく、実際の生活習慣や活動内容も分けて考える必要がある。

【大徳寺の木像】166〜169cm説はどこから生まれた?

170cm説と並んで知られるのが、166〜169cmという推定値である。

この数字を紹介した資料の一つが、2017年5月27日付のBEST TIMES掲載記事「一番身長が高かった戦国武将は誰?」だ。

同記事では、歴史研究家の小和田泰経氏による解説として、信長の身長を大徳寺に残る等身大の木像から5尺5〜6寸、つまり約166〜169cmと推定する説を紹介している。

当時の尺貫法を現代の長さに換算した数字であり、170cm説より少し低い。

ただし、ここには重要な注意点がある。

大徳寺総見院の木造織田信長坐像とは

大徳寺総見院には、織田信長の木造坐像が伝わっている。

この像は信長の死後、豊臣秀吉が追善供養のために建立した総見院の本堂に安置されたもので、現在は重要文化財に指定されている。

文化庁の文化遺産データベースによると、この像は天正11年(1583年)5月吉日に、仏師の康清によって制作された。

信長が本能寺の変で亡くなったのは1582年6月2日。その翌年の一周忌に向けて制作された肖像彫刻と考えられている。

この像の特徴は、単なる人物を表現した彫刻ではなく、信長の姿を伝えるために制作された等身大の肖像彫刻であることだ。

木像の高さは約115cm

京都市公式の京都観光Naviや総見院の公開案内では、この木造坐像の高さは三尺八寸、約115cmと紹介されている。

ここで混同してはいけないのが、坐像そのものの高さと、人物の立った状態での身長は別の数字だという点である。

木像は座った姿勢で制作されているため、像の高さ115cmをそのまま信長の身長とすることはできない。

また、等身大という表現も、現代の身長計で測った数値と同じ意味ではない。

166〜169cm説は、この木像を含む資料から導かれた研究者の推定として紹介されているが、木像の高さだけで信長の立位身長が確定するわけではない。

木像から分かることと分からないこと

木像は、信長の体格や姿勢を考えるための貴重な資料である。

一方、現存する像には、肖像彫刻としての造形上の特徴や儀礼的な表現も含まれる。

顔つきや肩幅、衣服の表現などから当時の人物像を考えることはできても、それらを現代の身体測定と同じ精度で扱うことは難しい。

したがって166〜169cm説は、170cm説とは別の根拠を持つ有力な推定として理解するのが妥当だ。

【長興寺の肖像画】信長の体格をどこまで読み取れる?

信長の身長を考える際には、長興寺に伝わる肖像画も欠かせない資料である。

愛知県豊田市の長興寺が所蔵する「織田信長像」は、天正11年(1583年)に描かれた作品で、東京文化財研究所の年紀資料集成にも登録されている。

同資料によると、作品は縦70.0cm、横31.2cm。絵師は狩野元秀とされ、信長の一周忌にあたる天正11年6月2日の制作・寄進に関する銘文が残されている。

つまり、信長の死後間もない時期に制作された肖像画という点で、歴史的な価値が高い。

肖像画に描かれた信長の姿

信長の肖像画には、面長な顔立ちや大きな鼻、髭、細身の体つきなど、人物の特徴を伝える要素が見られる。

文部科学省の歴史資料教材では、信長の肖像画は17点残されており、彫刻された木像も3点知られていると紹介されている。

ただし、肖像画の多くは死後の法事などに際して制作されたものだ。

長興寺本も信長の死後に描かれているため、本人の生前の姿を直接記録した写真のようなものではない。

また、縦70cmという数字は掛け軸全体の寸法であり、信長本人の身長を表すものではない。

肖像画から170cmを断定できない理由

肖像画には、絵師による表現や当時の美意識、人物の地位を示す演出が含まれる。

そのため、描かれた人物の身体の比率が実際の体格と完全に一致するとは限らない。

大徳寺本の信長像についても、京都国立博物館の研究紀要で山本英男氏が修理時の新知見を詳しく分析している。

この研究では、衣装の彩色や刀、扇子、人物の表情など、作品の制作背景や表現方法に関する重要な発見が報告されている。

肖像画は信長の人物像を考えるための重要な資料だが、身長を直接測定する道具ではない。

【戦国時代の平均身長】信長は当時として長身だったのか?

信長が170cmだったと仮定すると、戦国時代の男性の平均身長と比べてどの程度大きかったのだろうか。

この疑問を考えるうえで参考になるのが、人骨から推定された歴史上の日本人の身長データである。

室町時代の男性平均は約157cm

九州大学の小宮秀一氏が1997年に発表した研究「日本人の体組成」では、関東地方で出土した成人の右大腿骨最大長をもとに、時代別の平均身長が整理されている。

同研究が引用する平本嘉助氏の1981年のデータでは、室町時代の男性26例の平均推定身長は156.81cmだった。

この数値は戦国時代の男性全員を対象とした調査ではないものの、信長が生きた時代に近い身体的特徴を考えるための参考になる。

仮に信長が170cmだったとすると、この平均値より約13cm高い。

166〜169cm説を採用した場合でも、約9〜12cm高い計算になる。

ただし、室町時代の人骨データは地域や標本数に限りがあるため、戦国時代の全国平均として扱うことはできない。

信長・秀吉・家康の身長比較

篠田達明の『日本史有名人の身体測定』で紹介されている推定値を使うと、三英傑の身長は次のようになる。

人物 推定身長 同時代の平均157cmとの比較
織田信長 170cm +13cm
豊臣秀吉 140cm −17cm
徳川家康 159cm +2cm

※すべて同書で紹介された推定値に基づく比較。確定した実測値ではない。

この比較では、信長は3人の中で最も高い。

一方、秀吉の140cmという数字は非常に小さく、家康の159cmは当時の平均に近い。

ただし、3人の数値を同じ確度の歴史的事実として扱うことはできない。推定方法や資料の種類が異なる可能性があるためだ。

この比較表から分かるのは、現代の研究・著作において、三英傑の身体的特徴がどのように推定されているかという点である。

【プロの結論】信長は170cm前後の長身だった可能性がある

ここまでの資料を総合すると、信長の身長については、170cm説と166〜169cm説が代表的な推定として存在する。

一方、フロイスの『日本史』では中くらいの背丈とされ、華奢な体つきだったという人物評も残っている。

この情報を合わせると、信長は細身で、当時の平均身長を上回っていた可能性があるという人物像が浮かび上がる。

ただし、フロイスの表現には書簡と『日本史』で違いがあり、木像や肖像画も実測値を直接示す資料ではない。

そのため、2026年11月時点で最も正確な答えは「170cm前後という推定があるが、実際の身長は確定していない」というものになる。

歴史上の人物の身体的特徴を考えるときは、数値の大きさだけでなく、その数字がどの資料から生まれたのかを確認することが大切だ。

【よくある質問】織田信長の身長に関するFAQ

Q1:織田信長の身長は170cmで確定していますか?

A1:確定していない。篠田達明の『日本史有名人の身体測定』には170cmと記載されているが、信長本人の実測記録ではなく、後世の推定値である。

Q2:織田信長の身長が166〜169cmという説の根拠は何ですか?

A2:大徳寺に伝わる等身大の木像などを参考にした推定である。2017年のBEST TIMESの記事では、歴史研究家の小和田泰経氏による推定として紹介されている。

Q3:ルイス・フロイスは織田信長の身長を何cmと記録していますか?

A3:センチメートル単位の数字は記していない。『日本史』では「中くらいの背丈」と表現し、華奢な体つきだったとも描写している。

Q4:大徳寺の織田信長の木像は身長170cmですか?

A4:木像そのものの高さは約115cmと紹介されている。座った姿勢の坐像なので、その高さを信長本人の立位身長と混同してはいけない。

Q5:織田信長は豊臣秀吉や徳川家康より背が高かったのですか?

A5:篠田達明の著書では、信長170cm、秀吉140cm、家康159cmと推定されている。この推定値を比較する限り、信長が最も高い。ただし、いずれも確定した実測値ではない。

織田信長の身長は何cmだったのか。この疑問に対して、2026年11月時点で確認できる代表的な推定は170cmと166〜169cmの2つである。

170cm説は篠田達明の『日本史有名人の身体測定』に記載され、大阪府立図書館も紹介している。一方、166〜169cm説は大徳寺の木像などを根拠とする研究者の推定として知られている。

ルイス・フロイスの『日本史』には「中くらいの背丈」「華奢な体つき」という人物評が残り、長興寺の肖像画や大徳寺の木像も信長の姿を考えるための重要な資料となっている。

ただし、どの資料も現代の身長測定のように正確な数値を確定できるものではない。

現時点で最も誤解の少ない表現は「織田信長の身長は不明だが、166〜170cm前後とする推定がある」というものだ。

信長の実像を知るには、後世に広まった数字だけでなく、同時代の人物評や文化財、身体的特徴を記録した史料を合わせて見ることが欠かせない。

参考資料

- 篠田達明『日本史有名人の身体測定』(KADOKAWA、2016年)
- 大阪府立図書館「本蔵 -知る司書ぞ知る(24号)」(2016年10月20日)
- ルイス・フロイス『日本史』松田毅一・川崎桃太訳
- 文部科学省「歴史と資料・資料をよむ」
- 小和田泰経氏の解説を掲載したBEST TIMES「一番身長が高かった戦国武将は誰?」(2017年5月27日)
- 文化庁「文化遺産データベース・木造織田信長坐像」
- 京都市公式「京都観光Navi・総見院」
- 東京文化財研究所「織田信長像(長興寺)」
- 京都国立博物館・山本英男「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について」
- 小宮秀一「日本人の体組成」(九州大学健康科学、第19巻、1997年)
- 濱田浩一郎「『豊臣兄弟』の主君・織田信長は冷酷な人間だったのか?」(ダイヤモンド・オンライン、2026年1月17日)

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化粧品の全成分表示と製造販売元の公式資料、公的機関の効能評価を確認して記事化。体験談は取材了承を得た範囲でのみ引用します。

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